
昨今、ニュース等で連日報じられている「年収の壁」の引き上げ案。パートやアルバイト従業員の所得税が非課税となる「103万円の壁」は段階的に引き上げられ、「178万円」へと大幅に引き上げられる方針です。
最低賃金の上昇が続く中、「秋口にはすでに103万円に達してしまい、年末の繁忙期にスタッフがシフトに入れない」というジレンマは、小売業や飲食業を中心とする多くの企業にとって頭の痛い問題でした。この法改正は、「採用」や「シフト管理」のあり方を根底から覆す可能性を秘めた非常に重要なテーマです。
「非課税枠が広がるなら、みんなもっと働いてくれるはず」と期待する声がある一方で、実は雇用主側が注意しなければならない「落とし穴」も存在します。本記事では、この変更案に関して経営者・人事担当者が今のうちから押さえておくべき5つの重要ポイントと、具体的な実務対策を解説します。
目次
労働力確保のビッグチャンスと「年末シフト問題」の解消
まず、この制度改正がもたらす最大のメリットは、慢性的な人手不足の緩和と、毎年末に現場の店長や管理者を悩ませてきた「シフト調整業務」の軽減です。
これまで多くのパート・アルバイト従業員は、「年収を103万円(所得税の壁)に収めたい」という理由から、10月〜12月にかけて労働時間をセーブする傾向がありました。年末商戦で一番人手が欲しい時期に欠勤が増え、結果として正社員や店長が過重労働を強いられる…という光景は、多くの職場で共通の課題です。
非課税枠が178万円に引き上げられれば、月額換算で約14.8万円まで所得税がかからずに働けることになります。これにより、年末の働き控えが劇的に減少し、既存スタッフの労働時間を自然な形で延ばすことができるようになります。「採用費をかけずとも、今いる優秀なスタッフの稼働力が増える」という意味で、企業にとっては非常に前向きな要素です。
【最重要】最大の罠は「社会保険の壁(106万・130万)」が残ること
しかし、ここで経営者が最も注意しなければならないのが、「税金」の壁が178万円に上がっても、「社会保険」の壁はそのまま残る公算が大きいという事実です。
「178万円まで手取りが減らずに働ける」と勘違いされがちですが、実際には以下の「社会保険の壁」が存在します。
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106万円の壁(月額8.8万円以上など): 従業員51人以上の企業等において、週20時間以上働くなどの条件を満たした場合、勤務先の社会保険への加入が義務付けられます。
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130万円の壁: 企業の規模に関わらず、これを超えると配偶者の社会保険の扶養から確実に外れ、自身で国民健康保険・国民年金(または勤務先の社会保険)に加入しなければなりません。
社会保険料は所得税と異なり、給与の約15%という大きな金額が天引きされます。つまり、所得税がゼロになったとしても、年収が106万円や130万円を超えた瞬間に社会保険料が引かれ、「働く時間を増やしたのに、手取りが大きく減ってしまう(いわゆる働き損)」という逆転現象が発生するのです。
【実践】手取り額シミュレーションと現場への影響〜小規模スーパーの場合〜
制度が複雑化することで、従業員自身も「結局自分はいくらまで働くのが一番得なのか?」と大きな混乱を抱えます。ここで「会社側は何も教えてくれない」と不信感を持たれては、せっかくの労働力確保のチャンスを逃してしまいます。
雇用主としては、自社の条件に合わせた具体的なモデルケースを提示することが不可欠です。ここでは「従業員数50人以下の小規模スーパー(130万円の壁が適用される企業)」で、時給1,100円のスタッフが働く場合を想定し、税金の壁が178万円に引き上げられた際の手取りシミュレーションを見てみましょう。
働き方別・手取り額シミュレーション表(時給1,100円の場合)
| 働き方のモデル | 年収 | 月の労働時間 / 月収目安 |
所得税 | 社会保険料等 (概算) | 推定手取り額 |
|
A. 扶養内キープ |
129万円 |
約98時間 |
0円 |
0円 |
約128万円 |
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B. 働き損ゾーン |
135万円 |
約102時間 |
0円 |
約20万円 |
約114万円 |
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C.がっつり稼ぐ |
178万円 |
約134時間 |
0円 |
約26万円 |
約151万円 |
シミュレーションから読み解く、店長・経営者のシフト戦略
この表から、現場での人員マネジメントにおいて以下の3つの指針が見えてきます。
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「135万円(モデルB)」は避けるようアナウンスする
少しシフトを増やして年収が135万円になった場合、所得税はゼロでも社会保険料の負担が発生するため、手取りが約114万円に激減します。129万円に抑えたモデルAと比べると、労働時間が増えたのに手取りが14万円も減る「完全な働き損」です。従業員からのクレームやモチベーション低下を防ぐため、このゾーンは避けるよう面談等で事前説明が必要です。 -
「月130時間以上」働けるコアスタッフを育成するチャンス
税金の壁が178万円になれば、「モデルC」のように月130時間以上(週4日×8時間程度)働くスタッフに対して、「税金で引かれないから、しっかり稼げるよ」と自信を持ってシフトをお願いできるようになります。社会保険料は引かれますが、それを上回る収入を得られるため、発注業務やレジ締めを任せられるような「頼れる準社員・パートリーダー」へステップアップしてもらう絶好のきっかけになります。 -
働き方の「二極化」を前提にシフトを組む
月収の目安は「10.7万円に抑える(モデルA)」か、「14.8万円近くまでがっつり入る(モデルC)」かの二択になります。中途半端なシフト(月11万〜12万円台)は従業員にとって損になるため、店長はスタッフそれぞれの希望を明確に把握し、パズルを組み合わせるようにシフトを構築するスキルが求められます。

盲点になりがちな「家族手当・配偶者手当」の規程見直し
4つ目のポイントは、社内の人事制度の見直しです。
現在、多くの日本企業では、正社員に対して支給する「家族手当」や「配偶者手当」の支給条件を、税制の基準に合わせて「配偶者の年収が103万円以下であること」と就業規則や給与規程で定めています。
「178万円への引き上げに伴い、自社の手当の基準はどうするべきでしょうか?」
自動的に自社の基準も178万円に引き上げるのか、それとも「103万円」という独自の基準を維持するのか。あるいは、政府のガイドライン等も踏まえ、これを機に「配偶者手当を廃止し、子ども手当や従業員全体の基本給ベースアップへ原資を振り替える」といった抜本的な人事制度改革を行うのか。
制度が変わってから慌てて検討を始めると、手当を外された正社員からの不満や労使トラブルにつながる恐れがあります。今のうちから自社の就業規則を確認し、経営陣で方針をすり合わせておくことが不可欠です。
バックオフィス業務(給与計算・年末調整システム)への早期対応
最後に、実務面での準備です。
基礎控除額などが大幅に引き上げられる場合、毎月の給与計算システムにおける「所得税の源泉徴収税額表」の設定変更や、年末調整で使用する「扶養控除等申告書」などの各種フォーマット・ルールの変更が発生します。
新制度の適用開始に向けて、システム改修や人事・総務担当者の業務負担が一時的に跳ね上がる危険性があります。施行時期の目処が立った段階で、普段から委託している社会保険労務士や税理士、利用している給与計算システム(SaaSベンダー等)のアップデート情報にアンテナを張り、実務対応が滞らないようスケジュールを組んでおきましょう。
まとめ:変化を「自社の労働環境を見直す好機」と捉える
「税金の壁」が178万円に引き上げられることは、パート・アルバイトスタッフの働き方の選択肢を広げるという意味で間違いなくポジティブなニュースです。
しかし、経営者・人事担当者としては、表面的なニュースに踊らされることなく、「社会保険の壁との二重構造をどう説明し、従業員に納得して働いてもらうか」に焦点を当てる必要があります。
制度の変更は、ピンチでもありチャンスでもあります。このタイミングで、スタッフ一人ひとりとのコミュニケーションを密にし、希望に沿ったキャリアとシフトを提供できる「働きやすい職場づくり」に真摯に取り組むことが、結果として長期的な人材確保と企業成長に結びつくはずです。まずは自社の現状把握と、従業員への情報共有の準備から始めてみてはいかがでしょうか。
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Writer
ヒトキタ編集部 山本 祥子
Profile
コンテンツメディア部にてユーザー向け施策の企画・サイト運営に従事。フリーペーパー編集などを手掛け、現在は広報・販促・営業支援・デザインを行う。